権命婦 羽倉豊子         
士族羽倉信平の娘
明治2(1869).2生まれ
明治17(1884).9.13出仕 十三等出仕
明治18(1885).6.25任 権命婦/正八位/八等官
明治21.1.11 権命婦羽倉豊子死去せるを以て、金五十円を下賜あらせらる。

羽倉氏
山城風土記に以下のような伝説が載せられている。
泰中家忌寸らの遠祖泰公伊呂具は富者であった。あるとき餅を的として矢を射たところ、餅が白鳥になって飛びかけり、三が峰の山上に止り、そこに稲が生じた。不思議に思った伊呂具がそこへ神社を建て、伊奈利社と名付けた。 これが稲荷神社創建のいわれで、二十二社註では、これを和銅四年のこととする。イナリはイネナリ(稲生)が転じのちに稲荷の漢字をあてたものである。稲荷神社にある古い神影では、老翁が稲束を肩に担った姿が書いてあるが、これは稲荷の字からの連想であろう。 伊呂具がはじめ祭ったのは山上の社殿で、泰氏の祖神であったろうが、稲荷の語から穀物の神である倉稲魂神が主祭神となり、山上の祭神を猿田彦命、山中を倉稲魂神、山下を大宮女命とし、上社・中社・下社の三社三座ととなえた。泰氏の本拠は太泰の地でそこの広隆寺は泰氏の氏寺であり、松尾神社が氏神であるが、酒造を業として富を築いた一族が伏見に稲荷神社を建てて崇敬したのである。猿田彦命は道開きの神で、神像を描くときは赤顔の天狗とする。大宮女命は調和の神である。上中下の山というのは三が峰のことで、稲荷山の中腹にあたり、三社はそれぞれ二百メートルばかりの距離にある。この神域は奥の院とされ、現在は神苑で各所に赤い鳥居が立ち、また本殿からこの奥の院に通ずる道は、俗に千本鳥居と呼ばれ、鳥居がトンネル状に並立している。 社殿が現在の地に営まれたのは、弘仁七年(816)空海の奏請による建立とされ、空海は稲荷神を教王護国寺の鎮守とした。本殿に奥三社の神を合祀したのであるが、延喜式神名帳に「稲荷社三座」とあるのはこれである。延喜式に名神大社とされ、祈年・月次・新嘗の奉幣に預っている。のちに摂社の田中神・四大神を相殿に加え。平安時代後期には、稲荷五社大明神と呼ばれた。なお、稲荷山全体の地主神を荷田の神という。 天長四年(827)従五位下を授けられて以来、稲荷神の神位は累進して天慶五年(942)正一位に進み、のち二十二社の上七社のうちに列した。 神職には神主・御殿預・目代・禰宜・祝などがあり、泰氏の子孫が代々奉仕して、西大路・針小路・大西・松本・祓川・羽倉・毛利などの諸家となった。ただし羽倉家だけは、泰氏とは別に荷田宿禰姓を称し、雄略天皇の後裔というが、泰氏の分流であろう。東西の羽倉家に分かれている。江戸時代の国学者荷田春麿はその一族から出た。 豊臣秀吉は、社領百六石を寄せ、江戸幕府もこれを踏襲した。秀吉はまた天正十七年(1589)稲荷社を造営し、徳川綱吉も元禄七年(1694)造営に尽くしている。 稲荷信仰では、神木である杉と、神使である狐が有名である。稲荷神に祈るものは、杉の木を植えて成育すれば吉、枯れれば凶とされ、詣でるものは神域の杉を折りかざして家に帰る風があり、これを験の杉といった。また神仏習合思想から稲荷神は、咤枳尼天とされ、招福除災・財富蓄積の神となって、商売繁盛を願う多くの人々が詣でた。全国に分祀社約三万五千といわれ、分祀社の多いこと神社のうち第一番とされる。


写真師・鈴木真一
鈴木 真一(すずき しんいち、1835年〈天保6年7月〉 - 1918年〈大正7年〉12月18日)は、幕末・明治時代の写真家。弟子の岡本圭三(1859-1912)に2代目鈴木真一の名前を継がせた後は鈴木真と名乗っている[1]。初名は勇次郎。

略歴
1835年(天保6年)7月、伊豆国賀茂郡岩地村(現・静岡県賀茂郡松崎町)の高橋家の三男・勇次郎として生まれる[2]。20歳で下田の商人・鈴木家の娘婿となる[2]。鈴木家は下田屈指の資産家だったが、安政の大地震で商売が駄目になり、蚕紙製造業を始めるも、結局真一が横浜に出ることとなる[2]。

1866年(慶応2年)横浜に出て下岡蓮杖に師事する。独立して1873年(明治6年)に横浜弁天通に鈴木真一写真館を開業、弟弟子だった岡本圭三を娘婿に迎え、2代目鈴木真一を名乗らせる。

鈴木写真館は評判を呼び、宮内省の注文を受けて皇居内に出入りを許され、1874年に北白川宮、小松宮を撮影、1877年には第一回内国勧業博覧会にて皇族の肖像写真その他を出品し、花紋章を受章[3]。

1881年に九段に支店を開き、米国留学から帰った娘婿の岡本圭三に任せ、真一は1884年に横浜真砂町に新たに2階建ての白い洋館の写真館を建てて移転し、主に外国人の撮影を行った[3]。陶磁器に写真を焼き付ける技術を開発し、外国人向けに日本の風景や風俗写真を焼き付けた陶磁器を販売したり、風景や人物の合成写真をハテナ写真と名付けて人気を得るなどして横浜本店、九段支店ともに大成功を収めた[4]。鈴木写真館は宮内省御用掛となり、1889年には英照皇太后、昭憲皇后の専属の写真撮影を命じられた[4][5]。

1896年に隠居し、二男の伊三郎を嗣子として家督を譲り、鈴木真一を名乗らせ、自身は鈴木真と改名[6]。

1902年には、女性写真師を養成する学校を作っている。写真合成の技術開発のほか、10数年にわたる研究の末、陶磁器に写真を焼き付けることに成功、着色写真と合わせて輸出港横浜を訪れる外国人客の人気を博した。

家族
実父・高橋文左衛門 ‐ 伊豆国賀茂郡岩地村の半農半漁[2]
姉・文 ‐ 子に依田佐二平、依田勉三。[7]
養父(岳父)・鈴木与七 ‐ 下田の質・荒物商人「大阪屋」[2]
妻 ‐ 与七の長女
長男・金太郎(1858-1892) ‐ 家業の写真館を手伝い、後継者と期待されていたが30代で病死[7][4]
長女・信子 ‐ 入婿に岡本圭三。圭三(1859-1912)は上州勢多郡の農家の三男で、下岡蓮杖に師事し、真一の弟弟子だった。「2代目鈴木真一」を名乗り、名古屋本町で写真館を開業するも、1879年から真一の援助で米国サンフランシスコで最新写真技術を学び、1881年に帰国、麹町区飯田町で九段支店経営。日清戦争時に海運業にも乗り出したが、死者を出す海難事故を起こし、事後処理のために全財産を処分し、「鈴木真一」名も返上した。[3][7][6]
妾 ‐ 不明
二男・鈴木伊三郎 ‐ 亡くなった異母兄に代わって写真館館主となり、1896年に父の隠居に伴って家督を継ぎ、鈴木真一を襲名。後妻のきく(畿久)は福地源一郎の娘(福地家系図には未掲載)。[2][7][6]
妻・おきん
次女・三七子 ‐ 伊三郎の妻の姉夫婦の養女となる(福地家系図には未掲載)。[8][4]
妻・西郷美遠子(1839-1915) ‐ 西郷近思の六女。真一とは再婚(1873年)。[7]
三男・四十(よそ、1874-1928) ‐ 真一40歳の時の子。英国グラスゴー大学卒業後、米国フィラデルフィアのボールドウイン工場の製図室に勤務、1901年に帰国し、横浜の英国系商社セール・フレーザー商会に勤めたが、グラスゴー大学で先輩だった高峰譲吉に誘われて高峰商事に転職し、譲吉の病死で同社社長に就任した。自ら設計した小石川小日向台町の洋館で、妻ジェシー(英国時代の下宿屋の娘で日本名・英子)と3人の子、真一夫妻とともに暮らしていたが、1921年に離婚し、妻子はカナダに移住した。[7][6][8]
三女・四二子(よにこ、1876-) ‐ 真一42歳の時の子。陸軍士官・三原三郎の妻。4人の子を儲けたが出産時に新生児とともに急逝。遺児たちは継母から疎外され、新聞に「連隊長家の継子いじめ」の風刺漫画として報じられた。[7][8]
女子写真伝習所
女子美術学校の写真学科増設に賛同したものの計画が見送られたため、1902年に弟子の河村勇次とともに牛込西五軒町に女子写真伝習所を設立した[9]。明治期において、同校は女性に写真術を教える唯一の教育機関であり、女子写真学校とも通称された[10][9]。2年制の本科の入学資格は尋常小学校を卒業した満14歳以上とし、写真技術のほかに普通科の授業も履修、また経験者対象の研究科や2ヶ月修了の速成科のほか、まとまった通学時間が取れない場合の随意科が用意された[10]。月謝は1円、その他実費が2、3円かかるところ、経済的に苦しい学生対象に奨学制度を設けること、写真館の就職には修正の技術者が求められ、女性の雇用が期待できると鈴木たちの学校を紹介した編者は述べている[10]。女子の入学者が少なかったため、男子の入学も認められた[9]。