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◆秋保研廣
1. 秋保研廣の出自と家系図の背景
秋保氏は、陸奥国名取郡秋保郷(現在の宮城県仙台市太白区秋保町)を数百年間にわたり支配した在地領主(武家)です。
出自の伝承: 諸説ありますが、公式には桓武平氏の流れを汲むとされています(平重盛、または資盛・清盛の子孫とする伝承)。また、越後の城氏や長崎氏の一族であるとする説もあります。
名字の変遷: 初期は「長崎」や「小松」を名乗っていましたが、南北朝時代(俊盛・盛定・重盛の代)に領地である名取郡秋保郷にちなみ「秋保」へと改称しました。
本拠地と展開: 長袋の「楯山城(長楯城)」を本拠とし、戦国時代には上館城などに分家を創出して地域支配を強めました。
伊達氏への服属: 領地が隣接する伊達氏に服属し、大崎合戦や最上氏との対抗戦において城館の整備や軍事行動を行いました。
領地替えとその後: 戦国末期、伊達政宗による長江月鑑斎の謀殺事件に連座する形で、その12年後に秋保から円田村(現在の蔵王町)へと所替(領地替え)を命じられ、中世以来の在郷領主としての直接支配に終止符が打たれました。
秋保研廣の位置づけ: 幕末・明治期を経て、秋保氏は拠点を仙台市内へと移しました。秋保研廣は、この中世から続く秋保氏の第28代当主として系図に名を残しています。彼の墓所は、伊達政宗の祖母・久保姫(栽松院)の牌寺である仙台市若林区連坊の栽松院にあります。
2. 所属連隊「後備歩兵第29連隊」の歴史
秋保研廣が陸軍少尉として籍を置いた「後備歩兵第29連隊」は、日露戦争期に編成された臨時の歩兵連隊です。常備軍である「歩兵第29連隊(会津若松・仙台)」を母体として、予備役・後備役の兵員で構成されました。
母体となった「歩兵第29連隊」:
1896年(明治29年)に編成完結。第2師団(仙台)の管轄下に置かれました。
当初は仙台を衛戍地(駐屯地)としていましたが、のちに福島県の会津若松(鶴ヶ城址の城郭内など)へと兵営が移されました。
「後備歩兵第29連隊」の動向(日露戦争):
1904年(明治37年)に日露戦争が勃発すると、動員令に基づき後備兵(現役・予備役を終えたベテラン兵)を集めて「後備歩兵第29連隊」が編成されました。
連隊は主に留守第2師団または後備旅団に組み込まれ、満洲(中国東北部)の戦線へ投入されました。
激戦地への参戦: 遼陽会戦、沙河会戦、そして日露戦争最大級の野戦となった奉天会戦(1905年3月)などの重要局面に投入され、ロシア軍と極めて激しい戦闘を繰り広げました。
研廣の戦傷: 陸軍省の公式記録(陸軍省大日記)によると、秋保研廣はこの日露戦役における激戦の中で戦闘により重傷(戦傷)を負った事実が記録されています。
秋保氏(あきうし)は、日本の氏族。陸奥国名取郡秋保郷(現在の宮城県仙台市太白区秋保町)を本拠とした武家。桓武平氏の流れを汲み、平重盛の後裔を称した。中世には秋保郷の在地領主として勢力を有し、戦国時代に伊達氏に従属した。江戸時代には仙台藩士となり、家格は御一家に列した。
秋保氏(鎌倉時代から戦国時代)
秋保氏の出自については諸説があり、確定していない。
秋保家に伝わる系図では桓武平氏の流れを汲み、平清盛の嫡男である平重盛の後裔を称する[1]。重盛の子資盛の後裔という資元は肥前国長崎に居住して長崎左衛門尉を称し、その後裔である長基が陸奥国名取郡秋保郷に移住したという。長基の子基盛は長袋に居住し、永仁3年(1295年)に名取郡を与えられたと伝えられる[2]。
一方、『系図纂要』所収の系図では、秋保氏を越後国の城氏の一族とし、蒲原郡から陸奥国名取郡へ移住した基盛が秋保氏を称したとしている[3]。このほか、鎌倉幕府の得宗被官であった長崎氏との関係を指摘する説もある[4]。平重盛の後裔とする系譜を含め、中世前期の秋保氏の系譜については不明な点が多い。
秋保氏は当初、長崎氏あるいは小松氏を称したとされ、南北朝時代の俊盛~盛定~重盛のいずれかの代に秋保氏を称するようになったという。長袋の楯山城および長楯城(長館)を拠点として秋保郷に勢力を築いた。
戦国時代の当主盛房の時代には、秋保氏の一族が秋保郷各地に分出した。盛房の弟盛義は馬場村に居住し、盛義の系統は上館、のち豊後館を拠点とした。また、盛房の次男盛久は境野氏、三男盛頼は竹内氏を称したと伝えられる。このように秋保本家を中心として一族が秋保郷各地に配置され、長袋・馬場・境野などに城館を構え、本家の秋保家が秋保五ヶ村の支配に当たっていた[5]。
秋保氏は、生産力の低い零細な山間僻地に位置する秋保郷の立地の特性上、当初は伊達氏からはあまり重視されず、自立性を有した国人領主として活動をした。こうした立地の特性から、当初はむしろ所領を接する最上氏と深い関係が築かれた。秋保氏の伝承によれば、明応9年(1500年)、盛房は大曲城主長井晴信の攻撃を受けて楯山城を失い、出羽国の最上氏を頼って逃れた。その後、永正年間に長井氏の苛政に苦しめられた旧領民が秋保氏の助けによりこれを放逐し、秋保氏は秋保郷へ戻って旧領を回復したとされる。盛房が最上へ落ち延びていた折、西国巡礼に赴き、その途次信州諏訪郡下野社に所領回復を祈願して諏訪神を勧請したのが、現在の秋保神社の起源の一つと伝えられている[6]。
盛房の子則盛は最上義守の娘を娶ったとされ、この頃から伊達氏との関係も次第に強まった。天文12年(1543年)には伊達稙宗から則盛に書状が送られており、遅くともこの頃には秋保氏が伊達氏の政治的動向と関わりを持っていたことが確認できる。天文の乱を経て、秋保氏は次第に伊達氏の支配下に組み込まれていったとされる[7]。則盛の子勝盛は、近隣の国衆である国分盛氏の娘を娶ったと伝えられる一方、伊達氏への従属をさらに強めた。伊達政宗の代になると、宗家のみならず、馬場秋保氏や境野氏などの分家も伊達氏との結びつきを強め、秋保氏一族の伊達氏への被官化が進んだ。
この頃、秋保氏一族は伊達政宗と対立した人物の処遇にも関わっている。黒川月舟斎は境野城に、長江月鑑斎は馬場の豊後館に預けられたとされる。月鑑斎は政宗の命を受けた秋保定重・頼重父子らによって殺害された。後世、その殺し方が卑怯であり、秋保家で祟りが続いたため、その霊を「月霊(がつりん)様」として祀るようになったところ禍は跡をたったという[8]。
仙台藩士として
豊臣秀吉の奥州仕置や関ケ原の戦いを経て伊達政宗の領国支配が再編されると、秋保氏も中世以来の本拠であった秋保郷を離れることとなった。
慶長8年(1603年)、秋保氏の惣領家は刈田郡小村崎村(300石)(現在の宮城県刈田郡蔵王町)、馬場家は刈田郡円田村(200石)(現在の宮城県刈田郡蔵王町)、境野家は加美郡大村(100石)(現在の宮城県加美郡色麻町)へ所替となり、秋保郷は仙台藩の直轄地となった。この際、秋保氏の多くの家臣は、所替に伴う禄高の減少によりその大部分は帰農した。これ以降、秋保氏は伊達氏家中において石高は微禄ではあるものの、「御一家」の家格に列し、仙台藩士に組み込まれた[9]。
寛永元年(1624年)には、秋保氏に秋保長袋の野谷地が下され、その後、承応元年(1652年)、伊達忠宗から長袋村に屋敷地を与えらるに至り、小村崎村から家臣を率いて秋保へ帰還を果たした[10]。
江戸時代後期の当主である氏盛は若くして藩政に参与し、伊達重村の時代に33歳の若さで奉行職に抜擢された。仙台藩の奉行は藩政を統轄する重職で、氏盛は知行千石を与えられた。氏盛の時代には長袋の長館周辺に家臣団の居住地が整備された。
以後も秋保氏は仙台藩士として続き、明治維新を迎えた。
系譜
秋保氏には複数の系図が伝わっており、中世前期については異同がある。
歴代当主[11]
平重盛
平資盛
平資元
平長基(新蔵人)- 当初長崎、じ後熊野に潜伏した後、主従17名で山伏姿で文治元年(1185年)四月に熊野を出発、翌文治二年(1186年)春に秋保郷に下着する。
基盛(小松三郎左ェ門)- 一時並木に潜伏、その後楯山に居を構える。
俊盛 - 小松寺を開山
盛定 - 奥州深題吉良貞家より秋保五ヶ村の領有を認められ、これ以降「秋保」を名乗る。
重盛 -
盛家 -
広次 -
広継 -
康広 -
政光 -
義光 -
盛房(平次太郎)- 明応九年(1500年)大曲城主(現在の名取市)長井晴信氏の奇襲を受け楯山城を放棄、最上義守のもとに逃亡。12年後に楯山を奪回。
則盛(伊勢守・能登守)- 伊達氏天分の乱に加勢。伊達氏への従属の開始。
勝盛(美作守・大善亮)-
直盛(平五郎・弾正忠)- 政宗の命により、葛西大崎一揆討伐へ参陣。慶長8年(1603年)刈田郡小村崎村へ所替。
定盛(播磨・雅楽)- 承応元年(1652年)、楯山原の御屋敷場を賜り、秋保へ帰還。
将盛(玄蕃・豊前)-
利盛(豊前・玄蕃)-
良盛(豊前)-
氏盛(外記)- 奉行職に抜擢
昌盛(外記)-
賢盛(外記)-
豊盛(平次太郎)-
安盛(茂松)-
研広 -
定盛 -
基盛 -
秀盛 - 現当主。在東京。