明治18年11月7日の日付のある、神社造営図 計1点です。「 北海道 後志国鎮座 金刀比羅神社新営之図 」と題されています。左端余白に「 所有主 中講義 仁木竹吉 」「 編輯兼出版人 東京神田今川小路 谷村幸三郎 」とあります。「 中講義 」という肩書から、仁木竹吉は、金刀比羅宮から教導職の資格を得ていたことが分かります。信心深い人物だったのでしょう。  仁木竹吉は、阿波国 徳島県 麻植郡 児島村( 川島町 → 吉野川市 )で、天保5年(1834)生。明治8年に北海道に渡り、小樽港に上陸し、道内各地を調査し、要人に接しました。明治12年、郷里から361人を連れて、余市郡の荒蕪の大地を開拓し、阿波特産の藍栽培を始めました。このため、明治13年、この一帯の地を 仁木村とする布告が出されました。現在の余市郡 仁木町です。  本図の左上に由緒が詳しく書かれています。それによりますと、讃岐の金比羅宮に請願し、明治16年5月に、社務所から正式に神璽を授与されています。この承認を基づき、金刀比羅神社を新しく造営する計画を立て、その完成予想図が本図と思います。「 金刀比羅宮 」の幟を立て、衣冠装束に身を包んだ神官一行が壮麗な祭列を組んで、社殿に進んでいます。多くの建物の配置を見ると、この神社の造営には相当な経費を要することが想像されます。どこに建立する計画だったのでしょうか。  明治15年には、瀬棚原野で新たな開拓村 竹吉村を開いています。本図の住所も「 後志国 瀬棚郡寄留 仁木竹吉 」となっていて、本図作成のころは、瀬棚原野で住んでいたことになります。  後志国は北海道西南部で、広大な面積を占めています。本図制作のころは、まだ建立場所が煮詰まっておらず、完成予想図のみ描いたのではないでしょうか。実際に建てられたのかどうか未確認です。  調べてみますと、現在の仁木町には 仁木神社が鎮座しています。明治12年に 仁木竹吉の郷里から 八幡社・祇園社・地神さんを地域ごとに創建したのが嚆矢で、明治36年に 仁木神社と改称されたとのことです。仁木神社は広い境内地を有し、立派な社殿などが配置されています。境内社として「 金比羅神社 」が鎮座していますが、こじんまりとした神社です。仁木町周辺には、独立した広い境内を有する金刀比羅神社が見当たりません。  それはともかく、明治10年代に、壮大な神社を計画し、実現しょうとした徳島県人が存在したことが判明します。  大正4年(1915) 81歳の波乱万丈の生涯を終えました。  裏面は白紙。  詳しい内容は、写真欄をご覧願います。  サイズはタテ33.5cm×ヨコ 46.7cm。  経年の変色・汚れ・小シミ・スレ・小破れ・折れ・折れシワがあります。タテヨコ8つ折りとなっています。  139年前の一枚刷ということで、ご理解願います。 ゆうパケット250円でお送りします。  ★保存状態の記述は、あくまで出品者の主観的な評価ですので、保存状態にきびしい方は、入札をご遠慮願います。