松山藩主・久松定謨の尽力により開校した「久松学校(現・中央区立久松小学校)」の明治6年開校当初と思われる、生徒約70名が写る集合写真。

◆久松学校(現・東京都中央区立久松小学校)
東京都内における歴史ある小学校の1つで、旧松山藩主かつ華族の伯爵久松定謨や町年寄の森津久兵衛等の尽力により創立された。
『東京府志料』に、「久松学校 明治六年七月創建ス華族久松定謨ノ献金ヲ資本トシテ新築セシカハ其姓ヲ取ツテ校名トセリ」との表記が残る。
同敷地内に同じく中央区立の久松幼稚園がある。戦後以降、創立周年式典の際は必ず皇室が招かれる東京都内の中でも名高い学校として知られている。毎度、皇室御来校の記念歌まで作詞・作曲される。日本橋地域の中で最多の生徒数であり、平成期から年々増加する生徒数に合わせて、数十年単位で増改築を繰り返している。
1873年(明治6年)3月9日 - 第一大学区第一中学区二番小学として久松町三十八番地にて創立。
1873年(明治6年)7月   - 開校式挙行。この時点の在籍児童数70余名。
この頃、第一大学区第一中学区二番小学久松学校に改称。
1885年(明治18年)4月   - 小学校令改正に伴い、日本橋区公立久松尋常小学校と改称。
明治期の「久松学校(現・中央区立久松小学校)」の写真は数枚存在が確認されているものの、
現存数が少なく、「背景に立派な校舎を主役に、その手前に小さく数人の生徒が並ぶ」ものである。
今回のアングルは、校舎がまだ存在しない時期か不明だが、約70人の生徒のみにクローズアップしており、現存唯一かつ、久松学校関連資料のうち「最古」である可能性がある。
開校当時の生徒は「大人・子供含めた70余名」と史実が残されており、当写真の人数は62名である。
また、鶏卵紙に台紙で張り付けた状態、質感から、明治初期の撮影であることは確実と考えられる。
松山藩主・久松定謨の幕末以降の足取りや功績を調査するうえでも、貴重な資料と言える。
関東大震災、東京大空襲などにより、当時の人物像を伝える文献や、肖像写真のような個人的な資料の多くが失われているエリアでもある。


日本橋久松町(にほんばしひさまつちょう)は、東京都中央区の地名で、旧日本橋区に当たる日本橋地域内である。「丁目」の設定のない単独町名である。住居表示実施済区域。

概要
日本橋地域の中でも、公的な施設が集約したエリアである。「久松」や「久松町」の名称が、警察署名や学校名などに使用されていることで知られている。古くは江戸初期に開さくされた浜町堀で大川に接し、物資の輸送路として大きな役割を果たし、のちに浜町川と呼ばれた地である[5]。

中央区が定める正式な英語ローマ字表記は Nihonbashi-hisamatsucho である[6]。

1617年(元和3年)に村松町から分かれて久松町となる。住居表示の実施により、旧日本橋久松町から現日本橋浜町に町域の一部を譲り日本橋橘町の一部を吸収、現在の久松町の形になった。